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横浜地方裁判所 平成5年(ワ)4484号 判決

両事件原告

櫻井節夫

右訴訟代理人弁護士

輿石英雄

黒田陽子

甲事件被告

横浜市

右代表者市長

高秀秀信

乙事件被告

財団法人神奈川県予防医学協会

右代表者理事

畔柳治三雄

右両名訴訟代理人弁護士

塩田省吾

右両名訴訟復代理人弁護士

阿部泰典

主文

一  両事件原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、甲乙両事件とも両事件原告の負担とする。

事実及び理由

第一  両事件原告の請求

一  甲事件

甲事件被告は、甲事件原告に対し、四八一五万二〇〇〇円及びこれに対する平成四年四月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  乙事件

乙事件被告は、乙事件原告に対し、四八一五万二〇〇〇円及びこれに対する平成四年四月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、両事件原告(以下「原告」という。)の妻である櫻井尚(以下「尚」という。)が、甲事件被告(以下「被告市」という。)から委託を受けた乙事件被告(以下「被告協会」という。)が平成二年七月六日に実施した乳がん集団検診を受けた際、検診担当医師による乳がん腫瘤の見落としがあり、乳がんに対する治療処置が手遅れにより、救命又は延命ができなかったとして、被告市に対し国家賠償法一条一項又は民法七一五条若しくは民法四一五条に基づき損害賠償を請求し(甲事件)、被告協会に対し民法七一五条に基づき損害賠償を請求した(乙事件)事案である。

一  争いのない事実及び証拠上容易に認定することができる事実

1  当事者

(一) 原告は、尚(大正一一年八月二三日生)の夫である(争いがない。)。

(二) 被告市は、地方公共団体であり、老人保健法二〇条の規定により医療等以外の保健事業である健康診査事業(同法一二条、一六条)の一環として、乳がんの集団検診事業を実施していたが(右事業の開始は同法施行前の昭和五五年)、右事業のうち検診業務については、同法二三条の規定により毎年四月に委託契約を締結して被告協会に委託していた(争いがない。)。

被告協会は、神奈川県民の健康と福祉を図るため、公衆保健に関する知識の普及と昂揚、その調査研究、各種集団及び個人に対する予防検診と医療などを目的事業として昭和三九年に設立された財団法人であり(争いがない。)、被告市との委託契約により、及び被告協会の本来の業務として乳がんの集団検診業務をしていた(乙四、乙二一、弁論の全趣旨)。

2  被告市における乳がん検診事業(弁論の全趣旨、なお乙一の一、乙三の一、二、乙二一)

(一) 乳がん検診の実施要綱(乙一の一ないし五、弁論の全趣旨)

被告市における乳がん検診事業の実施は「横浜市子宮がん・乳がん検診実施要綱」(昭和五五年施行。以下「実施要綱」という。)に基づいて行われている。右実施要綱(乙一の一)によれば、右乳がん検診事業は、横浜市内に住所を有する年齢三〇歳以上の婦人を対象とし(第二条)、あらかじめ保健所長が指定する検診会場において検診車等を用いて実施されるものであり(第四条)、検診実施計画の策定、検診事業の企画、立案、実施に係る連絡、調整を担当する被告市の衛生局(保健部保健指導課)(第五条(3))と、検診の申込手続、検診申込者の決定、検診会場及び検診実施日の決定、検診事業に係る衛生教育及び広報活動などの業務を担当する保健所(第五条(2))及び検診の実施、検診事業に係る衛生教育及び広報活動、健康診査費用の徴収等に関する業務を担当する被告協会(第五条(1))が相互に協力してこれを実施するものとされている(第五条)。

(二) 実施計画等(乙一の一)

また、右実施要綱によれば、衛生局長は、保健所長の意見を参考にして乳がん検診実施計画書を作成し、実施の前年度の二月末までに保健所長に通知するものとされており(第七条第一項)、保健所長は、右の実施計画書に基づいて当該年度における検診の実施に係る具体的事項(検診会場、検診人員など)を決定し(第七条第一項)、検診実施日を決定したときは、その日時、検診会場などを速やかに被告協会に連絡すべきものとされている(第九条)。

(三) 被告協会の検診業務(乙一の一、乙二、乙三の一ないし四、乙二一)

(1) 被告市と被告協会との間には、乳がん検診事業に関して、毎年四月、検診業務と検診料の徴収事務を被告協会に委託する旨の「委託契約書」(乙三の一)が交されている(乙三の一ないし四)。右委託契約(以下「本件委託契約」という。)によれば、被告協会の受託する乳がん検診業務は、業務明細書(乙三の二)によるものとされ(第一条第二項)、これによれば、検診日数は三〇〇日、一日当たり約一五四人、合計約四万六〇〇〇人を実施予定人員とし、所轄の保健所長が一か月前までに選定した受診希望者を対象とし、検診会場において受診者に対して検診上の注意を行うとともに、検診担当医師等に対してもオリエンテーションを行う(乙三の二業務明細書)。前記実施要綱によれば、検診の方法は、被告協会の定める乳がん検診調査票に対する回答(アンケート方法)を用いる問診と視診及び触診による診察によって行われる(第六条(2))。

前記委託契約書によれば、右の乳がん検診の実施方法は、被告市が貸し付けた検診車及び施設等を利用して行うものとされ(第三条)、被告市と被告協会との間には毎年乳がん検診車貸付契約書が交わされている(乙四)。

また、前記業務明細書(乙三の二)によれば、被告協会は、乳がん検診の実施後、受診者に対し、「横浜市乳がん検診結果通知書」に受診結果を記入して郵送又は交付し、被告市の衛生局長及び保健所長に対しては、「横浜市乳がん集団検診実施結果報告書」によって検診実施結果を報告することとされている。

(2) ところで、老人保健法四七条の規定によれば、市町村は、医療以外の保健事業に要する費用及び右事業に関する事務の執行に要する費用を支弁するものとされているが、同法五一条の規定によれば、市町村の長は、右保健事業の対象となった者等から当該保健事業等に要する費用の一部を徴収することができるものとされている。そこで、被告市においては、「老人保健法に基づく健康診査事業の費用徴収に関する要綱」(乙二。以下「費用徴収要綱」という。)を定めてこれを運用しているが、右要綱によれば、検診車又は施設を利用して実施された乳がん検診においては、検診料として一〇〇円を徴収すべきものとされている(乙二別表。なお、受診者が六五歳以上の者等に対しては費用の全部を徴収しないものとされる。同要綱第三条第一項)。前記委託契約書(乙三の一)によれば、右検診料の徴収事務も被告協会に委託されていることから(第一条第一項)、被告協会は、検診会場において健康診査費用の徴収事務受託者として受診者から検診料を徴収することとされている(実施要綱第一〇条)。

(3) 以上のような被告協会への業務委託については、前記委託契約書において、乳がん検診について一件につき二五五〇円の、検診料徴収事務について一日につき四二〇〇円の委託料が被告市から被告協会へ支払われるものと定められている(第二条)。

また、被告協会が受託した業務については第三者への再委託が禁止されている(第八条)。

(四) 乳がん検診担当医の確保及び選任(乙二一、弁論の全趣旨)

乳がん検診等の適切な精度管理を図ろうとした厚生省昭和六二年六月一日健医老第一九号の「老人保健法による健康診査について」と題する通達により、神奈川県は、神奈川県成人病検診管理指導協議会乳がん部会(以下「神奈川県乳がん部会」という。)を設置し、被告市は、右部会の設置に準じて横浜市乳がん検診協議会を設置している。

横浜市乳がん検診協議会は、被告市衛生局、被告協会及び横浜市内の大学附属病院などから成る協力医療機関から選出された委員によって構成され、各委員の所属する医療機関が神奈川県乳がん部会の定める基準(最近一年以上乳がんの検診に従事した実績を持つ医師、郡市区医師会の認める研究会に一年以上参加し、最近一年間の研究会出席率が五〇パーセントを超える医師、県成人病検診管理指導協議会乳がん部会が認める講習を受講した医師のいずれかに該当する医師であること。以下「検診医師基準」という。)を満たす医師を乳がん検診担当医として推薦し、その推薦名簿は右検診協議会及び被告協会に提出されている。

被告市衛生局、各保健所及び被告協会は、乳がん検診日程を決定した上、受診予定人数、協力医療機関の都合、検診場所等の条件を考慮して協力医療機関を選定して検診医の派遣を依頼し、右医療機関の承諾を得て検診担当医を確定している。

被告協会は、右の手続により確定した検診担当医に対し乳がん検診の検診業務を嘱託している。

(五) 乳がん検診に関する広報活動

また、前記実施要綱により、保健所長は、乳がんに関する正しい知識の普及啓発を行うとともに、保健所のお知らせ、広報よこはま等によって横浜市民に対し乳がん検診事業の周知徹底を図るよう努めるものとされている(第一三条)。

3  本件検診の経過(乙九の一、二、乙一〇、乙一一の一、二、乙二一、弁論の全趣旨)

(一) 本件委託契約に基づき、平成二年七月六日午前九時三〇分から午後二時三〇分まで、被告協会の委嘱を受けた昭和大学医学部藤が丘病院の外科医局員二名を検診担当医として緑保健所管内(横浜市緑区内)の霧が丘グリーンタウン第一集会所(以下「本件集会所」という。)において、被告協会所属の看護婦二名、被告協会員一名をスタッフとして乳がん集団検診が実施された(以下、当日の検診を「本件検診」という。)。

(二) 尚は、横浜市緑区霧が丘四丁目に居住していたが、平成二年六月ころ、被告市の緑保健所長に対し乳がん検診の受診申込みを行った。

本件検診の受診者は、当日午前九時三〇分から午前一〇時までの間、受付事務として被告協会所属の看護婦から乳がん検診票の問診項目に対する回答の記載につき確認を受け、その後乳がん検診料を支払った(尚は、受診当時、六五歳以上の者に該当していたため検診料の支払いは不要であった。)。右乳がん検診票には、住所、氏名、年齢、職業、身長、体重のほか、月経及び結婚の有無、妊娠及び出産の有無と回数、既往症の有無、しこり、分泌物及び痛みの有無、乳がん集団検診の受診の有無につき記載することになっており、尚は、しこり、分泌物及び痛みの有無につき、いずれも「なし」との記載をした(乙九)。

(三) 受診者は、受付終了後、被告協会所属の看護婦から、乳がんに関する一般的な説明のほか、検診の流れについてのオリエンテーションを受け、検診の際に気になることがあれば検診担当医に相談すること、検診の結果異常がないと認められた場合であっても月一回の自己検査と、年一回の受診が望ましいとの指導のほか、自己検査の方法について配布された自己検査のパンフレットに基づいて指導を受けた。

(四) 検診担当医は、検診車内で受診者の乳房の診察を行い、右診察の結果を乳がん検診票の乳房所見欄に記載することとなっていた。

尚の検診担当医は、昭和六〇年昭和大学医学部を卒業した後、同大学附属藤が丘病院の外科医局に勤務する外科医であり(本件検診当時三二歳)、乳がん集団検診の検診担当医としては、昭和六一年四回、昭和六二年三回、平成元年二回の経験を有していたが、尚の乳房に対する検査所見は、皮下脂肪の欄「少」、視診の欄「整」、触診(腫瘤の有無)の欄「なし」、乳頭分泌の欄「なし」であって、乳房判定は「正常」とするものであった(乙九の一)。

尚は、診察を受けた後、被告協会所属の看護婦から横浜市乳がん検診結果通知書の交付を受けたが、右通知書には、乳房検診結果として「異常を認めません。」との記載があり、また、異常がないと診断された場合であっても自己検査法に留意し、異常を認めた場合又は少なくとも年一回程度は医療機関で受診することを勧める旨の記載がされていた。

なお、本件検診の受診者数は一四四人(尚を含む初診者は三四人、再診者は一一〇人)であって、本件検診の結果、乳房が正常であると診断された物は一三二人、乳房に異常があると診断された者は一二人であり、右異常と診断された者のうち、精密検査が必要であると判断された者は一〇人であった(乙一一の一)。

4  尚の乳がん発症の経過(甲一、甲六、甲七、弁論の全趣旨)

(一) 尚は、平成二年一二月末ころ、胸部に痛みを感じたため、平成三年一月八日、つつじケ丘診療所において診察を受けたところ、左乳房上外側部分に腫瘤が触知されると診断されたため、虎の門病院を紹介された(甲六)。

(二) 尚は、平成三年一月一六日、虎の門病院の放射線科で乳房のエックス線検査(マンモグラフィ)を受けたところ、左乳房上外側部分に3.0センチメートル×2.5センチメートル大のがん腫瘤が発見されたことから、同月二六日、同病院に入院した。更に、同月二八日の超音波検査では、左乳房外側部分の腫瘤と左腋窩部分に多発性のリンパ節転移が発見されたため、左乳房のがん(Ⅲ期)であると診断され、同月三〇日、左乳房腋窩等の切断手術を受け、同年二月一六日に退院した(甲七。なお右切断手術後の同月一一日に腹部超音波検査を受けたが、がんが肝臓に移転した形跡は認められなかった。)。

(三) 尚は、退院後も、同病院で通院治療(放射線療法、投薬など)を受けていたが、肝臓にがんが転移した疑いが認められたため、平成三年一一月一八日、再入院し、同月二〇日、腹部CT検査(コンピュータ断層撮影)を受けたところ、9.6センチメートル×3.1センチメートル大の肝転移巣が発見されたことから肝臓に抗がん剤を注入する手術を受け、同年一二月七日に退院した。

(四) その後、尚は、同病院で抗がん剤の投与を受けていたが、平成四年二月二四日には再入院し、同年三月一一日、腹部CT検査を受けたところ、肝転移が悪化して、15.7センチメートル×6.8センチメートル大の肝転移巣が認められるに至り、同年四月二日、同病院で左乳がんを直接死因として死亡した(甲一)。

二  争点

1  検診担当医の乳がん検診行為は、国家賠償法一条一項の「公権力の行使」に当たるか。

(一) 原告の主張

(1) 乳がん検診行為の公権力性

乳がん検診事業は、老人保健法二〇条の規定による市町村の行う医療等以外の保健事業(同法一六条の健康診査)であり、市町村が同法所定の行政目的を実現するために実施しなければならない行政事業(公務)であるから、その実施が同法二三条の規定により保健医療機関等その他適当と認められる者に対して委託されている場合でも公務たる性格は失われず、国家賠償法一条一項所定の「公権力の行使」たる性質を有すると解すべきである。検診担当医の行う乳がん検診行為は、右のような性質を有する検診業務の中に不可分に組み込まれているものであるから、検診行為自体も公権力の行使に該当する。

なお、右の「公権力の行使」には、純然たる私経済作用を含む国又は公共団体の一切の作用を含むと解するのが最近の学説の趨勢であるから(最広義説)、たとえ、乳がん検診行為が医師の診療行為の性質を有するとしても、公権力の行使の概念に含まれると解すべきである。

(2) 検診担当医の公務員性

国家賠償法一条一項に規定する「公権力の行使に当たる公務員」とは、必ずしも「公務員」という身分を有する者に限られず、公務に従事する期間の長短、給与・報酬の有無は要件となるものではない。本件の場合、検診担当医の公務員性は、乳がん検診行為の公権力行使性の有無と被告市の検診担当医に対する指揮監督関係の有無によって判断されるべきである。

第一に、乳がん検診業務は、前記(1)のとおり、被告市が本来行うべき保健事業の一つであり、委託を受けた被告協会の右業務も公権力性を有することに変わりはなく、その不可欠な一環をなす検診行為は右事業の中に不可分に組み込まれているものであるから、当然に公権力の行使性を有すると解すべきである。

第二に、被告市から委託を受けた被告協会は、被告市から指揮監督を受ける関係にある。すなわち、委託された乳がん検診業務については被告市の前記実施要綱の手続に従って実施され、被告協会が乳がん検診を実施する際には被告市の貸与する検診車を使用しなければならないし(委託契約第三条)、検診業務の実施状況に関する検査及び資料提出の請求に応ずることが義務づけられ(同第七条)、被告市の定める関係諸規定を遵守し、被告市職員の指示に従わなければならない(同第九条)のであるから、被告市が被告協会を指揮監督する立場にあることは明らかである。そして、被告市から委託された乳がん検診事業を第三者に再委託することができないこととなっているから(同第八条)、検診担当医は、第三者とはいえず被告協会所属の医師と同じ立場に立つ者といえるのである。したがって、被告市が被告協会に対して行う右指揮監督は、直接又は間接に検診担当医に対して及んでいると解さなければならない。

よって、検診担当医は国家賠償法一条一項にいう「公務員」に該当する。

(二) 被告市の主張

(1) 乳がん検診行為と公権力の行使性

公権力の行使とは、国又は公共団体の作用のうち純然たる私経済作用を除いた一切の作用である(広義説)と解すべきであるが、乳がん検診行為は、医師が専門的技術、知識及び経験を用いて行う行為であり、医師の一般的診断行為(私経済作用)と何ら異なるところはない。すなわち、右検診行為自体は、被告市の乳がん検診事業という全体として公務の性質を有する行為の中で不可欠の一環をなすものであるとはいえ、右行為とその余の行為とを切り離して、その性質を考察、決定することができるのであり、右行為は、受診者に対し何ら強制力を及ぼすものではないし、診断の結果が受診者の法律上の地位に影響を及ぼすものでもないのであるから、予防接種などの場合のように公権力の行使性を認めなければならないような特段の事由があるとはいえない。よって、乳がん検診行為は公権力の行使に該当しないというべきである。

(2) 検診担当医の公務員性

契約によって公務を委託された私人の公務員性を判断する場合には、専ら委託された事務自体に公権力の行使性が認められるか否かが判断基準となるべきであるところ、被告市が被告協会に委託した乳がん検診事業が前記(1)のとおり公務の性質を有するとしても、検診担当医の乳がん検診行為自体は、その余の行為とは切り離して、その性質を考察、決定することができ、右行為の性質上、公権力の行使性を有しないということができるから、検診担当医は公務員に該当しない。

2  被告市と検診担当医との間に民法七一五条一項の使用関係を認めることができるか。

(一) 原告の主張

(1) 被告市と被告協会との間の使用関係

被告市は、乳がん検診事業及び乳がん検診料の徴収事務を被告協会に委託してこれを実施しているが、右業務委託契約は委任契約の性質を有するとはいえ、被告市と被告協会との間には、前記1(一)(2)のとおり、実質的な指揮監督関係が存在するから、両者間に民法七一五条一項の使用関係が認められる。

(2) 被告市と検診担当医との間の使用関係

被告協会が委託を受けた乳がん検診事業は、第三者に再委託して実施することができないものであるから、被告協会から嘱託を受けた検診担当医は、被告協会所属の医師と同様の立場に立つといえるのであって、被告市の被告協会に対する前記(1)の指揮監督は、直接又は間接に検診担当医に対しても及んでいるということができる。

(3) よって、被告市と検診担当医との間に民法七一五条一項所定の使用関係を認めるべきである。

(二) 被告市の主張

(1) 被告市と被告協会との間の使用関係

乳がん検診業務と検診料の徴収事務を被告協会に委託する旨を取り決めた前記実施要綱、業務委託契約、費用徴収要綱、検診車貸付契約の内実は、被告市と被告協会の業務分担の区別を明らかにするものであり、委託者である被告市の指揮監督権を定めるものではない。検診車は被告市の公有財産であり、また、検診料は公金であるから、被告市が地方自治法により使用方法、徴収方法を監督するのは当然であるが、検診行為については、検診車を用いるべきこと、集団検診として問診、視診、触診とすることを定めるのみである。そもそも検診行為は、被告市の行政施策のために必要な前提資料の収集を図ろうとする純医学的な行為であり、被告市との関係で独立性が強く、指揮監督になじまないものである。したがって、委託者被告市と受託者被告協会との間には民法七一五条の使用関係がない。

(2) 被告市と検診担当医との間の使用関係

被告市と被告協会が嘱託した検診担当医との間には何ら契約関係も存在しない。また、被告市が検診担当医に対して直接オリエンテーションなどを行うことも定められていないのであり、被告市の指揮監督が検診担当医に及ぶことはない。したがって、検診担当医が被告協会の被用者であったとしても、被告市は、検診担当医の行った不法行為につき使用者責任を負担することはあり得ない。

(3) よって、被告市と検診担当医との間に民法七一五条一項の使用関係を認めることはできない。

3  被告協会に免責事由が認められるか。

(被告協会の主張)

被告協会は、前記認定事実第二、一2(四)(乳がん検診担当医の確保及び選任)のとおり、被用者たる検診担当医の選任及び監督について相当な注意を尽くしていたのであるから、民法七一五条一項但書によって同医師の不法行為について使用者責任を負わない。

4  被告市と尚との間に検診行為についての準診療契約が成立するか。

(一) 原告の主張

被告市の各保健所は、検診の実施前に「保健所からのお知らせ」を配布して横浜市民に対し乳がん検診の勧誘を行い、受診希望者は、右勧誘を受けて、乳がん検診の受診申込書を保健所長に対して提出するのである。

また、乳がん検診料の本来の徴収者は被告市であり、被告協会が、検診会場において受診希望者からこれを徴収するのは徴収事務の受託者としてこれを代行しているに過ぎない。

さらに、被告協会は、乳がん検診終了後、各受診者に対し乳がん検診結果通知書を交付して検診の結果を通知しているが、この通知書の発行者は、被告市(被告市衛生局及び横浜市乳がん検診協議会)であり、被告協会は事務局に過ぎない。

これらの関係からみれば、乳がん検診受診についての準診療契約は、被告市との間に成立するものであり、本件検診については、平成二年七月六日に尚と被告市との間において右の準診療契約が締結されたと認めることができる。

(二) 被告市の主張

乳がん検診においては、検診の受付から検診票と自己検診のパンフレットの配布、検診票の記入の指導とそのチェック、検診料の徴収と領収書の発行、看護婦による検診手順の説明とオリエンテーション、屋外検診車における担当医による検診、検診所見の作成と検診結果通知書の交付までの実際の業務は、すべて被告協会によって行われ、その間に被告市の行為は何ら介在していないから、尚と被告市との間に原告主張の契約が成立することはあり得ない。尚は被告協会に対して受診申込みをすることによって原告主張の契約を締結したのであるから、同契約は、尚と被告協会との間で成立したということができる。

5  検診担当医に触診上の過失が存在するか。

(一) 原告の主張

(1) 尚の本件検診当時の乳がん腫瘤の大きさは、約1.2センチメートルであった。

(2) 一般に、乳がん専門外科医は、触診によって0.5センチメートル大の乳がん腫瘤を触知することが可能であるし、その他の医師にとっても一センチメートル以上の乳がん腫瘤を発見することは格別困難なことではないとされる。そうすると、乳がん検診の受診者に一センチメートル以上の乳がん腫瘤が存在する場合には、検診担当医は、受診者の乳房を触診して右の乳がん腫瘤を発見し、かつ、受診者に精密検査の必要があるとの診断をすべき注意義務を負っていたということができる。

本件検診において尚の検診を担当した外科医は、昭和六〇年昭和大学医学部卒業後、同大学藤が丘病院の外科医局に勤務し、昭和六一年四回、昭和六二年三回、平成元年二回の乳がん検診の経験を有していたことから、本件検診時に触診によって約1.2センチメートル大の乳がん腫瘤を発見することは容易にできたはずである。したがって、尚の検診を担当した検診担当医は、右の注意義務を怠り、尚の触診の際に右乳がん腫瘤を見落としてしまった過失がある。

(二) 被告市及び被告協会の主張

(1) 乳がん集団検診の限界

乳がん集団検診は、地域、職域等の一定範囲の無症状の多数者集団を対象とするもので、右集団の乳がんの死亡率を低下させることを目的として実施されるものであるから、その検診(一次検診)は、大量の処理に適し、安全で安価な問診、視診及び触診の方法を採用せざるを得ない(なお、乳がんの検査方法には、二次検診として乳房エックス線検査、超音波検査、細胞診等の検査があり、最終的には医療機関における組織検査(三次検診)によって病理組織学的診断を行うのが一般的である。)。

しかし、視診及び触診は、医師の主観によるため検診担当医の技術差によって乳がん腫瘤を発見する度合いも異なるし、統計的にみれば、視触診によって乳がん腫瘤を発見する度合い(感度)は低く、検診学界からは乳がん集団検診の一次検診は異常の有無という大まかなスクリーニングを行うのが目的であって乳がんの存在を確かめるものではない(異常なしというのは乳がんの不存在を保証するものではない。)と主張されているのである。このような実状からすれば、乳がん検診において異常所見の見落としの可能性は常に否定できないのである。

よって、検診担当医の注意義務の程度には、視診及び触診には方法上の限界があって、単に異常所見の見落としがあったからといって、これをもって直ちに検診担当医の過失を認定することはできない。

(2) 本件検診時の腫瘤の大きさ

鑑定人清水哲の鑑定によれば、平成二年七月六日当時の尚の乳がん腫瘤の大きさは直径1.2センチメートルの大きさであったとされている。しかし、これは平成三年一一月一八日に発見された尚の肝転移巣のダブリングタイム(腫瘤の容積が二倍になる期間)二二日を用いて原発巣である左外側乳がんの発育速度を逆算して推定したものであるが、右ダブリングタイムは患者固有のものであるから安易な推定はできない。むしろ、尚においては、平成三年一月三〇日の乳房の切断手術の後、同年一一月一八日に発見された肝転移巣(無病期間約九か月)により平成四年四月二日には死亡するに至ったこと(がん再発後生存期間約五か月)から、尚の乳がんは増殖速度の速い悪性度の高い短期死亡乳がんであったと認められ、このような短期死亡乳がん(スピードがん)については、前記(1)の乳がん検診の限界からして異常所見を発見するのは難しく、検診担当医の技術能力の如何に関わらず、異常所見を発見できなかったとしてもやむを得なかったといえる。

また、本件検診時の尚の問診票にはしこりがないとあったのであり、同人の乳がんが極めて悪性度の高いものであったとすれば、本件検診時には、むしろ尚の腫瘤は0.5センチメートル大にも育っていなかったというべきである。そうであれば、検診時に発見できなくても已むを得ないというべきである。

6  因果関係の在否

(一)(1) 原告の主位的主張(死亡との間の因果関係)

尚は、本件検診時点において検診担当医によって異常所見が発見され精密検査を受けることによって、早期に乳がんが発見され、これに対する治療措置が実施されていれば、死亡するには至らなかった。

(2) 原告の予備的主張(延命可能性喪失との間の因果関係)

仮に検診担当医の過失行為と尚の死亡との間に因果関係が認められないとしても、尚は、本件検診時点に検診担当医によって異常所見が発見され精密検査を受けることによって、早期に乳がんが発見され、これに対する治療措置が実施されていれば、平成四年四月二日の死亡時点よりも相当期間の延命の可能性があった。すなわち、「全国乳がん患者登録調査報告第一〇号」(甲一〇の一、二)によれば、平成二年七月六日時点の発見があれば、一〇年生存率は八七パーセントであるのに対し、発見の遅れにより右生存率は五三パーセント、あるいは統計の当てはめ方によっては七六パーセントに減少することが明らかである。これらの統計によっても、尚に早期手術が行われていれば、相当期間の延命があったことは明らかである。

(二) 被告市の主張

がんの悪性度は、その浸潤的発育、転移性発育とこれらの速度によって表現されている。尚の乳がんは、本件検診時から約六か月後の平成三年一月八日には小児手拳大(マンモグラフィーでは、3.0センチメートル×2.5センチメートル)の進行がんとして発見され、同月二八日には左腋窩に多数のリンパ節転移が発見され、同年一一月二〇日には9.6センチメートル×3.1センチメートル大の肝臓転移が発見され、平成四年二月には死亡している。このように尚の乳がんは浸潤性、転移性、発育速度のいずれにも極めて悪性が強く、仮に本件検診時に腫瘤の発見があったとしても救命又は延命の可能性はなかったと考えられる。

7  原告の損害

合計四八一五万二〇〇〇円

(一) 逸失利益

一五一五万二〇〇〇円

(二) 慰謝料

(1) 尚の慰謝料 二〇〇〇万円

(2) 原告自身の慰謝料一〇〇〇万円

(三) 弁護士費用 三〇〇万円

第三  争点に対する裁判所の判断

一  国家賠償法一条一項の適用について(争点1)

1  まず、乳がん検診事業の法的性質を検討すると、市町村の行う乳がん検診事業は、老人保健法二〇条の規定により医療等以外の保健事業として行われる健康診査であり(一二条四号)、これを規定する同法一六条によれば、心身の健康を保持するために行われる診査及び当該診査に基づく指導を指すものであるが、右法律は、国民の老後における健康の保持と適切な医療の確保を図るため、各種保健事業を総合的に実施し、もって国民保健の向上及び老人福祉の増進を図ることを目的とするものであり(一条)、国民は、年齢、心身の状況等に応じ、職域若しくは地域又は家庭において、老後における健康の保持を図るための適切な保健サービスを受ける機会を与えられ(二条二項)、他方、国は、保健事業が健全かつ円滑に実施されるよう必要な各般の措置を講じなければならない等の責務を負い(三条)、地方公共団体は、この法律の趣旨を尊重し、住民の老後における健康の保持を図るため、保健事業が健全かつ円滑に実施されるよう適切な施策を実施しなければならないものとされ(四条)、医療等以外の保健事業は、市町村が実施主体となって行い(二〇条)、右事業に要した費用は市町村が支弁し(四七条)、国及び都道府県は、右費用の各三分の一ずつを負担するものとされている(四九条、五〇条)。

これらの老人保健法の各規定の趣旨からすれば、市町村の行う医療等以外の保健事業が同法の要求する行政目的を達するための施策であることは明らかであり、その一事業である乳がん検診事業も同様のものと解することができる。

ところで、右行政目的は、国民の側からは適切な保健サービスを受ける機会を与えられるものであるが、それを法律の目的とし、行政の作用によって実現しようとする限りにおいて、国家賠償法一条一項に規定する公権力性を帯びるものと解するのが相当である。したがって、被告市の行う乳がん集団検診の事業も、それが行政目的として行われる限り、右公権力性を失わないと解されるのであり、集団検診の場所、日時の選定や検診手続の運営等に関して関与した公務員に過誤があるときは、なお、国家賠償法一条一項の適用の余地があると解される。

2  しかしながら、乳がん検診事業において行われる乳がんの検診行為そのものは、別異に考えなければならない。すなわち、右の検診行為自体は、希望して参集した受診者の問診と受診者に対する視診及び触診によって乳がんを疑わせる異常所見を発見しようとする医療上の診察行為であり、広く一般国民中の受診希望者との間の受診契約に基づいて行われるものであるから、通常私経済作用と解されている公務員たる医師の診療行為と何ら異なるところがないというべきである。

したがって、本来、医療上の診療行為に過ぎない乳がん集団検診における検診行為に前述の公権力性を見出そうとするのは失当であり、それが乳がん集団検診事業に組み込まれ、不可欠な一環であると解するとしても、右診療行為に過ぎない検診行為上の過誤は、原則として国家賠償法一条一項の適用を受けないものと解される。

3  被告市の行った本件の乳がん集団検診の実際は、前記認定事実のとおりであるが、右の事実と後記認定の過失とはいえないものの本件検診における検診担当医の過誤を前提としても、被告市の同法一条一項の責任を問うことはできない。

二  民法七一五条の適用について(争点2)

次に、被告市と被告協会の使用者責任の成否について検討する。

1  前記第二、一1ないし3で認定した事実(以下「前記認定事実」という。)に、証拠(乙一の一ないし五、乙二、乙三の一ないし四、乙四、乙五の一及び二、乙六、乙二一)及び弁論の全趣旨によれば、被告市は、もともと昭和五五年から被告協会に対して乳がん集団検診の実施を委託していたが、昭和五八年二月一日に老人保健法が施行されてからは、被告市は、被告協会との間で毎年四月一日付けで前記認定の本件委託契約を締結し、また、委託した乳がん集団検診業務の円滑な実施に資するために前記実施要綱と費用徴収要綱を定めて、被告協会にその遵守を求めていること(本件委託契約第九条)、右実施要綱上、被告市の衛生局、保健所と被告協会の業務分担と協力関係がうたわれているものの、検診の実施計画は被告市で作成し、その実施に係る具体的事項(検診会場、検診人員等)及び実施日は保健所長が決定して、これを被告協会に連絡するものとされていること(実施要綱第五条、第七条、第九条)、また、検診の方法についても、検診票による問診及び診察(視診及び触診)によるものと限定され(実施要綱第六条(2))、被告協会の検診は被告市の貸与する検診車及び施設等を利用して実施することが義務づけられ(本件委託契約第三条)、更に、被告市は、被告協会の検診業務の実施状況について検査し、又は資料の提出を求めることができ(本件委託契約第七条)、また、被告協会は、被告市の定める関係諸規定を遵守し、被告市の職員の指示に従うことが義務づけられていること(本件委託契約第九条)が認められる。

2  右の事実によれば、被告市の乳がん検診業務の実施に際しては、被告市と被告協会の立場は必ずしも対等であるとはいいがたいが、被告市の右の優先的かつ主導的地位は、乳がん検診事業が行政目的によるものであり、被告市が行政主体であることからくる本来的なものであり、その指揮監督の及ぶ範囲は、検診業務全体の運営上の側面に限られるものと解され、その医療専門的業務である検診(診察)行為にまで及ぶものではないと解される。すなわち、前記実施要綱、本件委託契約には、いずれも検診(診察)行為に対する被告市の指揮監督権を認める規定はなく、本来医療的専門的分野である検診(診察)行為に被告市の指揮監督を及ぼすことは適切ではないからである。

したがって、検診行為に関しては、被告市の指揮監督が及ぶ余地はなく、被告協会が前記認定事実のとおりの手続を経て嘱託した検診担当医と被告市との間には、民法七一五条の使用関係を認めるのは相当ではないというべきである。

3  しかしながら、被告協会とその嘱託に係る検診担当医との間には、右の使用関係を認めることができる。すなわち、被告市から委託を受けた被告協会にとって、乳がん集団検診業務の中の検診(診察)行為は、本件委託契約上も、受診希望者との受診契約においても、まさに被告協会の業務であり、嘱託された検診担当医は、自らの業務としてではなく、被告協会の所属医師の場合と同様に、被告協会の業務として実際の検診行為を行っていると解するのが相当であるからである。したがって、被告協会は、民法七一五条の適用に関しては、右検診担当医の使用者としての地位にあるというべきである。

三  準診療契約の当事者について(争点4)

1  ここで争点4について判断するに、前記認定事実に前掲証拠を総合すると、被告市の各保健所は、ほぼ常時「保健所からのお知らせ」というパンフレットを横浜市民に配布して乳がん集団検診の受診を勧誘し、受診を希望する市民は、保健所長に対して検診の受診申込書を送付し、保健所から場所と日時の指定を受けて、検診会場に赴き、被告協会の職員による受付手続を受け、検診料を支払い、被告協会に所属する看護婦のオリエンテーションと各種説明を受け、その指示する手順に従って検診担当医から検診(診察)行為を受け、その終了後、前記看護婦から「横浜市衛生局」と「横浜市乳がん検診協議会」の連名の「横浜市乳がん検診結果通知書」を受領していることが認められる。

2  しかしながら、右の事実によるも、被告市と検診受診者との間に直接の私法上の受診契約(準診療契約)が成立しているとは認められない。すなわち、老人保健法上被告市が乳がん集団検診事業の主体ではあるが、行政上の主体であることから当然に私法上の契約当事者としての地位が演繹されるとは必ずしもいえず、前記認定のとおり、被告市の事業たる乳がん集団検診業務の実施が本件委託契約により全面的に被告協会に委任(準委任)されている関係にあることに照らせば、被告協会が私法上の個々の受診契約締結権限を取得したと解することがむしろ本件委託契約の法律関係に符合するというべきである。また、「保健所からのお知らせ」の勧誘に応じて受診希望者は保健所長宛に受診の申込書を送付するが、この段階で受診契約の成立を認めることは、検診日における欠席の場合を考慮すると、実態に即するとはいえず、受診希望者が検診会場で現実に受付手続をとった場合にのみ契約の成立を認めるのが相当である。なお、検診料の徴収権限は、老人保健法上被告市にあることは明らかであるが、これも公法上の債権であって、このことから直ちに被告市が私法契約の当事者とならなければならないものではなく、むしろ検診業務と徴収事務とが一括して被告協会に委託されていることが、被告協会に受診契約締結権限が帰属することを示すものと解される。更に、前記「結果通知書」は、前記乙一の一の実施要綱(第一一条)と乙三の二の本件委託契約の業務明細書(5)によれば、被告協会が各受診者に対して郵送又は交付されるべきものと定められ、現実に被告協会がこれを行っているのであるが、法律上乳がん検診事業が行政施策として行われるものであることから、被告協会が行政上の機関の名義を用いたに過ぎないと推認されるのであり、これをもって、被告市が受診契約の当事者と解するのは当たらない(特に、「横浜市乳がん検診協議会」は前記認定事実によれば被告市そのものではない。)。

3  このようにして、尚についても、被告協会との間で準診療契約たる受診契約が締結されたと認めるのが相当である。したがって、右受診契約上の債務不履行(不完全履行)の責任は被告協会が負うべきこととなる。

四  検診担当医の触診上の過失について(争点5)

そこで、本件検診における検診担当医の過失について検討する。

1(一)  まず、本件検診当時の乳がん腫瘤の大きさについてみるに、前記認定事実によれば、乳がん腫瘤の原発巣については、平成三年一月一六日の時点において腫瘤径は3.0センチメートル×2.5センチメートル(触診上は小児手拳大)であったことが判明しているのみで、これ以外の原発巣の腫瘤径は明らかでないこと、尚は、同月三〇日左乳房の切断手術を受け、同年二月一一日の腹部超音波検査では肝転移の形跡が認められなかったものの、その後、肝転移していたことが判明し、その転移巣の同年一一月二〇日における腫瘤径は9.6センチメートル×3.1センチメートルであり、また、平成四年三月一一日の時点の右腫瘤径は15.7センチメートル×6.8センチメートルであったことが認められる。

(二)  証拠(甲二ないし甲五、甲八、乙一二、乙一三、鑑定の結果)によれば、がん腫瘤の発育は対数的曲線を描くものであり、その発育速度は、がん腫瘤の容積が二倍となるに要する時間、すなわち、ダブリングタイム(腫瘤倍増時間。DT)によって表現され、次のような計算式(以下「DT計算式」という。)によって求められることが認められる。

DT=t×1/10×1/(log D2−log D1)

t(腫瘤径がD1からD2までに発育するのに要した時間)

D1(初回時に計測した腫瘤径で、腫瘤陰影の長径と短径の和の二分の一)

D2(終回時に計測した腫瘤径で、腫瘤陰影の長径と短径の和の二分の一)

(三)  そこで、前記(二)の計算式に前記(一)の認定事実(尚の肝転移巣の大きさ)を当てはめて、まず尚の肝転移巣のダンブリングタイムを算出するに、平成三年一一月二〇日における腫瘤径は、9.6センチメートル×3.1センチメートルであり、平成四年三月一一日における腫瘤径は、15.7センチメートル×6.8センチメートルであって、その間に要した時間は一一二日であるから、肝転移巣のダブリングタイムは、次のとおり約四五日となる。

D1=(9.6+3.1)÷2=6.35 log D1=0.8028

D2=(15.7+6.8)÷2=11.25 log D2=1.0512

t=112日

DT=112×1/10×1/(1.0512−0.8028)=45.0886≒45日

(四)  もっとも、前記鑑定結果、甲八(近藤誠の私的鑑定書)及び乙一三(福田護の私的鑑定書)によれば、尚の肝転移巣のダンブリングタイムは、同様の数値をDT計算式に代入して計算すると二二日であるとするが、右計算は、D1、D2の腫瘤の大きさを面積(長径と短径の積)として計算したもの(面積方式)と推認される(鑑定人清水哲の上申書)。しかし、この方法によっても、右のダブリングタイムは20.2日となることが計算上明らかである。

D1=9.6×3.1=29.76 log D1=1.4736

D2=15.7×6.8=106.76 log D2=2.0284

t=112日

DT=112×1/10×1/(2.0284−1.4736)=20.1875≒20.2日

(五)  次に、前記(三)の肝転移巣のダンブリングタイムを原発巣のダンブリングタイムとして借用できるかの問題がある。

証拠(甲四、甲八、乙一三、鑑定の結果)によれば、原発巣のダンブリングタイムと骨及び肺転移のダンブリングタイムとでは差がないことが認められ、同じく臓器への転移である肝転移巣についても同様に差がないと認めることができるから、原発巣の腫瘤径については平成三年一月一六日時点のものしか判明していない本件において、本件検診当時における右腫瘤の大きさを固定するためには、前記(三)の肝転移巣のダンブリングタイムを借用するよりほかはないというべきである。

(六)  そこで、前記(一)の認定事実(尚の原発巣の大きさ)に前記(三)の肝転移巣のダンブリングタイムを借用し、本件検診時(平成二年七月六日)における尚の原発巣の大きさを求めるに、平成三年一月一六日における腫瘤径は、3.0センチメートル×2.5センチメートルであり、平成二年七月六日から平成三年一月一六日までに要した時間が一九四日であるから、これらの数値をDT計算式(径方式)に代入して計算すると右原発巣の大きさは径約1.02センチメートルとなる。

t=194日

D2=(3.0+2.5)÷2=2.75 log D2=0.4393

DT=194×1/10×1/(0.4393−log D1)=45

log D1=0.4393−{194×1/(10×45)}=0.0082

D1=1.019≒1.02

また、本件鑑定が用いた面積方式によるDT計算式によれば、ダブリングタイムは前記のとおり20.2日となるから、右原発巣の大きさは径約0.91センチメートルとなる。

t=194日

D2=3.0×2.5=7.5 log D2=0.8751

DT=194×1/10×1/(0.8751−log D1)=20.2

log D1=0.8751−{194×1/(10×20.2)}=0.8751−0.9604

=−0.0853

D1=0.8217

=0.9065≒0.91

(七)  よって、DT計算式によれば、本件検診時における尚の乳がん腫瘤の大きさは概ね約一センチメートルであったと一応認めることができる。

2(一) そこで、右の大きさの乳がん腫瘤が触知可能な大きさであったかについてみるに、証拠(甲五、甲八、乙一三、清水哲証人、鑑定の結果)によれば、乳がん専門医が触診によって乳がん腫瘤を発見する際には受診者の乳房の大きさ、固さ、月経状況などによって影響を受けるし、検診担当医の乳がん検診の経験の多寡によっても影響があることから、触知可能な腫瘤の一般的大きさを決めることはできないが、清水哲証人の所属する横浜南共済病院における約九〇〇の乳がん症例中乳がん専門医が触診によって乳がん腫瘤を触知できた事例で、後日腫瘤径を測定した結果最も小さかった腫瘤は0.5センチメートルであり、他方、触診では乳がん腫瘤を触知できなかったがその後の乳房エックス線検査や超音波検査等の方法による検診で乳がんと診断された事例では、触知できなかった腫瘤径は0.2センチメートルないし1.0センチメートルであったこと、しかし、乳がん専門医の一般的な経験則によれば、九〇パーセント以上の乳がん専門医は直径約一センチメートルの腫瘤を触知することができ、その余の医師についても右の割合は下がるものの多数の者にとって触知可能であることが認められる。

(二) 右認定によれば、受診者の身体状況と検診担当医の経験の有無によって影響を受けることから触知可能な乳がんの大きさを一概に決めることはできないものの、乳がん専門医で乳がんの診断につき豊富な経験を有する医師には0.5センチメートル大の乳がん腫瘤でさえ発見することが可能であり、乳がん腫瘤の大きさが1.0センチメートル以下の場合には触知できない場合もあるが、1.0センチメートルを超える場合には大多数の医師にとって触知できる可能性が高いということができる。

本件において、本件検診時の尚の乳がん腫瘤径は概ね一センチメートルであったと認められるから、尚の乳がん腫瘤は、乳がん検診医の触診によって触知可能な大きさの範囲内にあったということができる。

3 しかしながら、このことから直ちに検診担当医に触診上の過失があったということはできない。すなわち、右数値は肝転移巣のダブリングタイムを借用して導き出した計算上の数値に過ぎないものであり、右数値のみを根拠に検診担当医の過失を論じることには、ある程度の慎重さが必要であると考えられる。

(一)  すなわち、証拠(乙一七ないし乙二〇、清水哲証人、鑑定の結果)及び弁論の全趣旨によれば、乳がん検診は、一般的に次のようなものであることを認めることができる。

(1)  乳がん検診は、通常、一時検診(問診及び医師による視診及び触診)、二次検診(乳房エックス線検査、超音波検査、細胞診等の各種機器を用いた検診)及び三次検診(乳腺疾患に関する知識及び優れた診断治療技術を備えた医療機関において行われる組織検査を含めた精密検査)と段階的に実施されるものであり、一次検診で異常所見が認められた場合には、二次検診で各種検査を実施して異常所見の原因を究明し、二次検診によって原因を究明できなかった場合に三次検診において病理組織学的診断を行うのが通例である。

(2)  乳がん検診の一次検診としては、乳がんを見落とす誤診例や乳がんでないものを乳がんであると誤診する例を少なくすること(このような検診の精度は、感度、すなわち乳がんであると診断する度合いと、特異度、すなわち乳がんでないと診断する度合いによって決定される。乳がんを見落とす誤診例が多くなると感度は低下し、乳がんでないものを乳がんであると誤信する例が多くなると特異度が低下する。)、検診時の客観的な情報を保存することによって後日検診結果を再現して検証できること(再現性)、身体に危険がないこと(安全性)、高額な費用がかからないこと(経済性)などが要求される。

(3)  乳がん集団検診は、一時検診として地域、職域等の一定範囲の無症状の多数者集団を対象として、右集団の乳がんの死亡率を低下させることを目的として実施されているが、検診担当医は、現実には短時間の間に多数の受診者の乳房を視診及び触診の方法によって検査し、受診者の乳房の異常所見の有無を発見することが要求されている。

しかし、大量処理の必要性のため各種機器を利用して検診することは費用面からの制約があり、視診及び触診の方法は、乳がん検診の一次検診として安全性と経済性を具備している利点はあるものの、検診担当医の主観によって行われるため担当医の技術差によって精度に差が生じ得るし(経験豊富な乳がん専門医を検診担当医師として確保すること自体困難な事情もある。)、客観的な情報も残らないため後日検診結果を検証することができない欠点がある。

昭和六二年に公表された研究者の統計(乙一八)によっても、視診及び触診の精度は、特異度が八六ないし九五パーセントであるのに比して、感度が五〇ないし七〇パーセントであって、視診及び触診による乳がん発見には限界があり、また、積極的に乳がん腫瘤ではないとする誤診例も少なくないことが明らかにされている。

(二)  右の事実によれば、乳がん集団検診は、一定の疾病を疑って行う一般の臨床的診療(診察)における行為とは異なり、一定の地域又は職域の多数の者を対象として健康保持のための保健事業として実施されるものであって、必然的に短時間の間に多数の受診者を検診しなければならない性質を持ち、かつ、統計的に視診及び触診の精度には絶対的な信頼を置くことができず、現実に乳がんを見落とす誤診例があるというのであるから、これらの事実を考慮すれば、本件検診において検診担当医が径約一センチメートルの異常所見を見落としたとしても、これをもって直ちに過失とまで評価するのはできないと考えられる。

(三)  もっとも、乳がん集団検診においても早期に乳がんを発見し乳がんによる死亡率を低下させることを目的として実施されているのであるから、検診担当医においては、右実施目的に即した注意義務を負っていることは明らかであるが、右の集団検診の実態に照らせば、右注意義務の程度を高度なものと考えることはできない。

証拠(乙九の一、二、乙一一の一、二)と弁論の全趣旨によれば、本件検診の場合、検診担当医二名は、検診当日午前一〇時から午後二時三〇分までの間、合計一四四名の受診者を診察し、その結果、受診者一人当たりの検診時間は平均約三分未満という短時間であったことが認められるが(受診者総数中一二人について乳房に異常所見があったから、これらの者に対しては更に時間を要したと推認され、尚のように何ら異常を記載しなかった者に対する検診時間は更に短かったと考えられる。)、このような検診態度の是非は別に置くとして、右のような状況下で尚の乳がん腫瘤の見落としがあったとしても、前述した観点に照らし、これを検診担当医の過失と評価することはできないというべきである。

(四)  よって、本件における乳がん腫瘤の見落としを検診担当医の触診上の過失とまでは評価することはできない。

第四  結論

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の被告市及び被告協会に対する各請求は、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官慶田康男 裁判官千川原則雄 裁判官髙橋伸幸)

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